槙原寛己に心臓異常で病気発覚!年俸推移と成績・高校時代の活躍とは?

【芸能ニュース】

元読売ジャイアンツの槙原寛己さんに心臓異常の病気が発覚した件が話題になっています!

槙原寛己さんといえば、1994年に完全試合を達成した読売ジャイアンツのエースとして有名な方でしたが・・。

2020年10月1日の『主治医が見つかる診療所』で、心臓にトラブルがあることが発表されてしまったようです。

槙原寛己さんの心臓異常とは、いったいなんだったのでしょうか?

まさたか
まさたか

この記事では、槙原寛己さんの心臓異常の病気の件や、現役時代(読売ジャイアンツ)の年俸推移、成績、さらに高校時代の活躍について、まとめてみました!

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槙原寛己に心臓異常で病気発覚!

元読売ジャイアンツのエース・槙原寛己さんに心臓異常の病気が出ていると報道がされています。

2020年10月1日の『主治医が見つかる診療所』では、お笑い芸人の麒麟・川島明さんと同じく、槙原寛己さんにも体の異常が見つかっています。

放送前の時点では、『元巨人エースに心臓異常が発覚する』と番組紹介がされていますが、いったいどういう病気なのでしょうか?

プロ野球選手は、引退後にかなり太ってしまったり、現役と同じ体形が維持できなかったりで、体調管理がむずかしくなる方が少なくないようです。

現に、現役当時はスリムだったのに、解説やテレビ番組出演などでメディアに出てこられた元プロ野球選手の方が、お腹が出てしまって「あ・・・」と思ったことがある方は、心当たりがありますよね?

現役時代の運動量とは明らかに違うのですから、仕方がないといえばそうなのでしょうが・・・。

なんにせよ、ちょっと物寂しい気分になってしまうのは、私だけではないはずです。

槙原寛己さんの心臓異常の病気が何かはまだ判明していませんが・・。

心臓関連の症状で思い当たる代表的なものを、下記に上げてみました。

狭心症(心臓を動かす冠状動脈が狭くなってしまう)
心筋梗塞(冠状動脈が詰まってしまう)
大動脈瘤(全身に血液を送る大動脈にコブができてしまう)
大動脈解離(大動脈が破れて血管の中にもう一つ別の血流が生まれてしまう)
弁膜症(心臓にある4つの弁のうちのどれかが壊れてしまう)

どれも、一歩間違ったり、症状が進んでしまうと、命に係わるトラブルになる可能性のある病気ばかりです。

槙原寛己さんの心臓異常の病気が、上記のどれにも当てはまらないことを祈るばかりですが・・。

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槙原寛己の年俸推移

槙原寛己さんの年俸推移を、現役時代のものについてまとめてみました。

・1981年 ドラフト1位 契約金4000万円
・1982年 260万円
・1983年 300万円
・1984年 900万円
・1985年 1140万円
・1986年 1200万円
・1987年 2040万円
・1988年 3060万円
・1989年 4260万年
・1990年 6900万円
・1991年 7630万円
・1992年 7140万円
・1993年 7800万円
・1994年 1億2000万円
・1995年 1億7000万円
・1996年 1億7000万円
・1997年 1億6000万円
・1998年 1億6000万円
・1999年 2億1000万円
・2000年 2億2000万円
・2001年 1億6500万円
注目ポイントは、1994年の7800万円から1億2000万円と5000万円近く上がった年でしょうか。
1994年は槙原寛己さんも31歳と熟練の年に入っていたことに加えて、契約金額が上がったこともあってやはり意気込みが上がっていたのか。
有名な完全試合を達成した年でもありました!
1994年の5月18日の読売ジャイアンツVS広島東洋カープの試合で、27人できっちり終わらせた試合として、野球ファンの間では有名な試合とのこと。
その内容は、三振7、内野ゴロ11、内野フライ3、ファウルフライ3、外野フライ3で、投球数は102球と、たった一人の投手が投げた試合にしては少ない球数であることに加えて、相手チームの打者を一人も塁に出さなかったわけで・・。
槙原寛己さんの完全試合の大記録は、この当時16年振り(阪急ブレーブスの今井雄太郎さんが達成した)の快挙で、歴史上15人しか達成していない素晴らしい記録だそうです♪
この記録は、2020年10月時点でも更新されておらず、NPB(日本プロ野球)では最新の完全試合の記録なのだとか。
年間でも大変多くの試合が開催されるプロ野球の歴史の中で、この記録はやはりすさまじいものがありますね!

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槙原寛己の成績

槙原寛己さんの成績の中で、大きな記録を上げてみました。

・最多奪三振:1回 (1988年)※当時は連盟表彰はなし
・新人王 (1983年)
・月間MVP:3回 (1986年8月、1988年5月 投手部門:1989年5月)
・日本シリーズMVP:1回 (1994年)
・日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1987年)

槙原寛己さんの成績であまり大きく取り上げられていないけど特筆すべき年は、1989年の12勝4敗4セーブで、勝率0.750を記録した年ではないでしょうか。

この年は、投げた回自体も他の年数と比べて少なく、体力の消耗が他の年よりも少なかったわりに、記録した勝率が多かったようですね。

また、当時の野球ファンなら語り草となっている、対阪神タイガースのバース・掛布・岡田の3連続ホームランや、新庄選手への敬遠をホームランにされたこと件ですが・・・。

討たれたご本人も、今さらほじかえしてくれるなという感じではあるでしょうが・・。

実は槙原寛己さんの成績の対阪神タイガース戦は、38勝10敗10完封と、意外にもかなりの好成績を残していて、通算勝率も0.792と、かなり素晴らしい記録を残していたことは、あまり知られていないようです。

(他の球団には、勝率0.506【121勝118敗】)

なので、痛烈なホームランを打たれたこと以外は、実はきっちり勝利を収めているという、槙原寛己さんの成績は稀有なピッチャーでもあるのです。

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槙原寛己の高校時代の活躍とは?

槙原寛己さんの高校時代の活躍にも触れていきましょう。

槙原寛己さんは、高校時代は大府高校に所属し、同じ学年の工藤公康さん(ソフトバンクホークス監督)や、浜田一夫さんなどと一緒に、『愛知三羽烏』というニックネームがつけられるほど、有名な選手でした。

槙原寛己さんの高校時代の最速の記録は、1981年の選抜での147キロ。

そして、プロ入りも確実視されていたわけですが、もともと槙原寛己さんは読売ジャイアンツか地元の中日ドラゴンズ以外には入らないという意志を貫き通し・・。

けっきょくドラフトで読売ジャイアンツに1位指名されて入団することになります。

これでちゃんと読売ジャイアンツに入ってしまうことが凄いですよね・・・。

入団1年目は1軍で戦うための体づくりをしっかりされていましたが、2年目でその能力が開花。

1983年には1軍初登板で初完封、そして12勝1セーブ(9敗)の活躍で、見事新人王を獲得します。

槙原寛己さんは高校時代の突出した活躍で、プロに入ってもすぐに結果を残された凄い人だったのですね!

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まとめ

槙原寛己さんの心臓異常や病気の件、年俸推移、成績、高校時代の活躍について、ご紹介させていただきました。

槙原寛己さんの病気が、進行しないように祈るばかりではありますが・・。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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